龍神沼の自由帳

気が向いたら更新しますわ

烈海の艨艟

最上型の運荷機能

艦前半部に主砲塔を集中した最上型軽巡洋艦は、空いたスペースとなった艦後半部分を艦載艇の搭載区画に充てていた。固有の艦載艇である内火艇やカッター、物資輸送にも兼用できる小発を搭載するほかに、大型の運荷艇を4隻搭載運用する能力を与えられていた。…

連合特別陸戦隊

上海事変から3年後、海軍陸戦隊はその組織を一変させた。従来海軍陸戦隊は、常設部隊である上海特別陸戦隊を除けば、それぞれの任務ごとに中隊〜大隊規模で編成され各個に運用されていた。陸戦隊を大きく拡大した上で、艦隊で臨時に編成される部隊を除いた全…

第四艦隊事件の影響

昭和10年9月、三陸沖において演習中の艦隊が大型台風による荒天に遭遇した。参加艦艇の多くが、船体設計における強度計算の不備に因り艦首切断の大事故を含む各種の損傷受けた。当然海軍内においてこの事件は大問題になり、船体設計の見直し、行過ぎた強武装…

航空任務の航空母艦への専任化の流れ

室戸沖事件以降、誘爆・延焼につながりかね無い航空兵装や雷装を、巡洋艦・戦艦から排除する方向で海軍は動き始めた。航空機は航空母艦に、雷装は駆逐艦・水雷艇・潜水艦に集約することで、兵装の複雑化による運用・防御上のデメリットの解消を計った。従来…

上海事変の戦訓2

上海事変の拡大に伴い陸戦隊は更に戦力を増強、膠着する戦局の打開を企図し、天龍・龍田の搭載上陸用舟艇による敵陣後方への舟艇機動作戦を実施した。中国軍の意表をついたこの作戦は戦術的奇襲となり、作戦方面における中国軍の潰走に繋がった。しかしその…

上海事変の戦訓

機動輸送艦としての初陣ともいえる上海事変において、天龍型は輸送作戦においては期待通りの実績を残した。しかし戦闘の激化により陸戦隊の依頼で沿岸部の戦闘の支援作戦を行った際、種々の問題が生じ充分な支援戦闘を実施することができず、いくつかの課題…

天龍型改造『機動輸送艦』

昭和4年翌年のロンドン軍縮会議を睨んで、当時完成から10年余りながら既に第一線で使用するには能力不足且つ艦型狭小故に改装等による能力向上も望めないとして、天竜型軽巡2隻を巡洋艦籍から外し海軍陸戦隊の緊急展開用の兵員輸送艦に改造することが決定し…

600トン級水雷艇のその後の経緯

600トン級水雷艇は12隻が建造されたが、結局のところ当初計画されていた艦型の拡大は条約の失効および戦術面での変化を受けて実現されること無く終ってしまう。昭和12年に起こった第二次上海事変では、600トン級水雷艇はその低喫水と使い勝手のいい性能によ…

600トン級水雷艇

ロンドン条約のため駆逐艦についてもその保有が制限されてしまったことを受け、条約の枠外で排水量以外は無条件に設計でき、且つ無制限に建造できる600トン以下の艦艇が注目されることになる。そこで艦政本部に対して軍令部から性能要求が出されたのだが、速…

800トン級汎用艦構想

ロンドン軍縮条約によって、大型艦の建造が一部を除いてストップしたことを機会にして、従来なおざりにされてきた中小艦艇の充実が図られることになった。その中には先に述べた空母転用予定艦なども含まれるが、その多くは八八艦隊計画や条約型巡洋艦の建造…

空母及び空母改造予定艦

10000トン級の艦は、将来の空母化の際その工事が煩雑になることを避ける為、最上型軽巡と同様に汎用性を持たせた基本設計を元にそれぞれの用途に合わせた艤装を施すよう計画され、水上機母艦3隻と潜水母艦1隻高速給油艦が2隻合わせて6隻が建造されることにな…

ロンドン軍縮会議以降の艦艇建造

ロンドン軍縮条約で主力艦以外の艦艇にも規制が及んだことによって、海軍では条約の埒外にある艦艇によっていくらかでも対英米に対する軍事力の劣勢を挽回すべく、各種艦艇について検討を行った。その結果、将来的に空母化することを前提にして排水量10000ト…

突撃巡洋艦最上

突撃巡洋艦とは、最上型巡洋艦の存在が明らかにされたとき、その艦型により受ける印象から自然と国民に広まった呼称である。3連装の主砲3基を階段状に艦前部に集中配置した特異な艦型は、海軍関係者のみならず一般国民にもその戦術思想をはっきりと理解させ…

ロンドン軍縮条約以降の巡洋艦について

昭和5年ロンドン海軍軍縮条約により、1万トン以下の航空母艦及び巡洋艦その他補助艦艇についてもその保有に制限がかけられるようになった。時期的にはその締結の一年前になるが、5,500t級軽巡に先駆けて建造された天竜型軽巡が艦型が小さく水雷戦隊指揮にさ…

修理および改装後の軽巡洋艦加古

昭和4年室戸沖事件後、加古は佐世保海軍工廠において事故の損傷の修理を行う予定だったが、加古の損傷状況が以降の建艦計画にも影響するような重大な要素を含んでいた為、艦政本部から徹底的な原因追及と損傷に対する検証が指示されることになった。加古を工…

室戸沖事件の影響

加古が喪失を免れた最大の要因として、缶機関のシフト配置の有効性が実証された。また乗員による応急措置についても検証され、応急要員の増員および応急対策についての教本の見直しが行われた。 また艦艇に航空機を積む危険性についての認識が持たれ、偵察空…

室戸沖事件

昭和4年9月第2艦隊第2水雷戦隊が太平洋四国近海で艦隊襲撃訓練後帰投中、訓練中に波浪で破損した旗艦加古搭載の偵察機の燃料タンクから漏出した回収漏れの揮発油が、乗員の休憩中の喫煙で引火、偵察機に延焼し艦上火災となり発射管内の魚雷が誘爆、機関室が…

巡洋艦加古(続き)

加古は本来八八艦隊で大量に建造された5,500t級巡洋艦に用意されていた艦名だったが、実験艦的存在である装甲指揮巡洋艦に流用された。 加古は重装甲・重武装という特徴のほかに、生残性を高めるための技術的実験としてシフト配置の缶室・機関が採用されてい…

加古のトップヘビー問題

加古就役前の1926年2月、公式試験中転舵時の艦の傾斜が計画よりも大きくなることが問題になった。特に燃料が減少したとき、船体が大角度に傾斜してしまい、天候によっては艦が危険な状態に陥るとの試験結果が報告された。このため加古は予定されていた就役を…

高速装甲巡洋艦加古

計画当初加古は装甲巡洋艦として計画されたため、艦名も河川名ではなく山名が予定されていた*1。その後計画排水量が7000トンを切ることになったことと主砲に14センチ砲が採用されたこともあって、兵庫県の加古川から艦名が採用された*2。計画時の要目は基準…

設定・加古建造の動機付け

帝國海軍水雷戦隊はジュットランド海戦に参加したものの、緒戦で旗艦が大破して指揮系統の混乱から雷撃戦で五月雨式の攻撃に終始し、戦果を得る事のないままいたずらに損害を増やした。 敗因として、旗艦とされた軽巡洋艦の抗甚性のなさが挙げられる。水雷戦…