龍神沼の自由帳

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修理および改装後の軽巡洋艦加古

 昭和4年室戸沖事件後、加古は佐世保海軍工廠において事故の損傷の修理を行う予定だったが、加古の損傷状況が以降の建艦計画にも影響するような重大な要素を含んでいた為、艦政本部から徹底的な原因追及と損傷に対する検証が指示されることになった。加古を工廠の乾ドックに鎮座させたまま、ほぼ3ヶ月にわたって調査が続けられた。その後もドックから艤装岸壁に移動させる為の工事が行われただけで、本格的な修理はその後一年以上も行われなかった。
 加古が改装も含めた*1修理に取り掛かったのは昭和6年4月に入ってからである。ほぼ1年半に亘った調査と検証そしてその影響から起こった建艦方針の大幅な変更の結果により、加古はその艦容を激しく一変することになる。建艦政策のなかでもっとも方針が改められたのは水雷戦隊旗艦の魚雷装備であり、従来の水雷戦々術に於いては旗下の駆逐艦と共に実施していた雷撃戦が否定され、旗艦は水雷戦の指揮と指揮下の駆逐艦の雷撃を、砲撃によって援護し敵直衛艦艇の排除に専念する為、その雷装を全面的に廃止することになった。また航空兵装についてはその価値を大いに認めながらも、被弾時の燃料火災等の損失面を考え*2搭載は見送られることになった。*3また防御装甲に対しても見直しが図られ、艦橋、主砲塔部など主要部に対12センチ級砲弾防御が施された。そのほか、機関・缶室部の防御力の強化や防水隔壁の見直し、艦内の不燃化とそれに伴う不燃系の塗料の開発、被害極限のための運用教育の改革など、ハード面ソフト面で各種の施策が実施された。
 加古の大改装による変更点を列記すると、先ず雷装・航空兵装の全廃、主砲の60口径15,5センチ砲への換装と砲塔配置の艦前方部分への集中、高角砲を40口径12,7センチ砲に変更、またもともとトップヘビー気味だったことに加えて主砲塔や艦橋その他の防御強化の為重量が増加したため、その対策として浮力増加の目的で舷側にバルジを追加、更に主砲配置の変更に伴い艦の重心が前方に移動した為その対策として艦首部を前方に10メートル延伸させた。艦首部の改造の際に実験的にバルバスバウを採用するとともに、従来のスプーンバウをクリッパー型艦首に変更した。動力関係にはほとんど変更は加えられておらず、排水量が1700トン余り増加したことで速力は32ノットに低下した。主な要目を挙げると基準排水量9500トン・水線長185m・最大幅16.1m・機関出力85000馬力・15・5センチ連装砲塔3基6門・12.7センチ連装高角砲4基8門、前述したように雷装・航空兵装がない代わりに指揮通信機能を強化しており、武装は砲撃戦用に特化している。またこの時期の艦艇としては、排水量のわりに対空攻撃力が強力といえるだろう。*4
 加古の修理改装が完了したのは昭和8年の6月で、その後半年あまりを訓練と運用実験に費やし、昭和9年2月連合艦隊に配属され二水戦の旗艦となった。その後最上型軽巡洋艦の数がそろうと、32ノットの最高速がネックとなり旧式艦艇を中心に編成される第二線部隊で運用されることになる。

*1:というよりも改装の方が主で工事は実施された。

*2:特に夜戦時の火災発生によって被弾が集中し指揮機能を喪失する可能性が重大視された。

*3:航空偵察や着弾観測等の航空任務は、専用の小型偵察空母を多数建造することで、全て母艦運用する方針が採用された。

*4:艦型としては、軽巡洋艦最上型の後部甲板の舟艇運用能力の代わりに連装高角砲2基を背負い式に配置したものを考えれば妥当だろう。