龍神沼の自由帳

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烈海の航跡4

第一次世界大戦の勃発により、日本は日英同盟の縁からドイツに宣戦布告、未曾有の大戦争に参戦する。日本海軍は青島攻略戦、ドイツ東洋艦隊追撃戦、エムデン追跡等の戦いに参加したが、エムデンの捕捉撃沈とドイツ東洋艦隊の太平洋脱出に伴い、アジア太平洋での任務は仮装巡洋艦の捜索ぐらいしか残らなかった。
その一方大西洋では、英独艦隊の対峙が続くと共に、ドイツの潜水艦戦が猛威を振るい始めていた。その中海軍の一部では大西洋に艦艇を派遣、運用することで経験を積み、弩級艦を主力とする新世代の海戦への対応を研究しようとする動きがあった。その中心にいたのは、日露戦争終了後いち早く整備が続けられていた、駆逐艦を主力とする洋上水雷打撃戦力の支持者達だった。当時新たな戦力区分として誕生したばかりの水雷戦隊の真の実力は未知数であり、主力艦たる弩級艦の隻数において米国に大きく遅れを取っていた海軍としては、小よく大を屠る水雷戦力の真の力を見極めたいと望んでいた。そのためシュペーの東洋艦隊が壊滅した1914年末には、早くも日本海軍から英国に対して、艦艇の派遣について内々の打診がなされている。
諸々の手続きを経て、日本海軍艦艇群がスカパフローに碇を下ろしたのは1915年も中盤をすぎた8月だった。
派遣された艦艇群は遣欧艦隊と呼ばれることになる。*1艦艇の内訳は、第一戦隊から分派された準弩級戦艦摂津・河内、最新型の軽巡洋艦として筑摩型についで建造された綾瀬、各型あわせて12隻の一等駆逐艦、補給艦3隻の18隻で、艦隊司令部は摂津に置かれた。

*1:後に地中海等に派遣された通商護衛戦力と区分するため第一遣欧艦隊と改称された