龍神沼の自由帳

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第2次上海事変での海軍の戦闘1

 実質3ヶ月あまりで終った上海から南京にいたる長江流域で起った日本軍と中国軍の戦闘において、変革途上の日本海軍艦艇はそこにどうかかわったのだろうか。日本海軍の主な作戦行動を追っていく。
 まず事変勃発時、上海方面における中国軍の不穏な動きに対応して、各地に散在していた陸戦隊輸送用の艦艇を各軍港に集結させ、常時行動可能な体制をとるため艦艇の整備乗員の充足を開始した。この当時兵員及び軍事物資を緊急展開可能な艦艇を列挙していく。水上機母艦千歳・千代田、*1機動輸送艦球磨・多摩・木曽・天龍・龍田*2、哨戒輸送艦1号型8隻、哨戒艇1号型4隻・31号型8隻、最上型巡洋艦4隻。以上が当時日本海軍が投入できる陸戦戦力輸送可能な艦艇だった。そしてこの艦艇群が、上海への陸戦隊大増派、上海敵前上陸作戦、さらに長江を遡上しての物資補給、南京大包囲作戦に向けての陸戦隊輸送等に投入されている。また輸送任務以外でも、最上型巡洋艦や機動輸送艦は陸戦部隊への支援砲撃任務を相当数実施、水上機母艦2隻は偵察や爆撃等航空支援作戦を行い、共に大きな戦果を上げている。そのほか各艦艇は大量に発生した中国軍捕虜*3の輸送にも動員されており、日本軍の進撃にともない投降してきた中国兵を、輸送作戦の帰路長江沿岸部の各地で艦に収容、上海郊外に置かれた収容施設まで運んでいる。

*1:計画時から輸送任務を考慮した格納庫を持ち、搭載艇発進用の扉を艦尾に設置していた。

*2:軽巡改造、球磨以下3隻は昭和10〜11年に就役

*3:事変の集結までに発生した中国兵捕虜は総数35万を超えており、この捕虜によって日本軍に生じた負担が事変の早期終結に結びついたといわれている。尚この事変での中国軍の戦死者は15万人に及んでおり負傷者は18万人、南京周辺で包囲された兵力30万人を加えると中国軍は戦闘に参加したほとんどの戦力を喪失したことになる。