龍神沼の自由帳

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日米戦争への道 2)

 1939年6月 宇垣内閣は満蒙国境紛争鎮静化のため海軍陸戦隊2個旅団及び海軍航空隊をノモンハン方面へ増派、更に機動師団に改編を終えたばかりの第2師団及び第6師団と新設の第1戦車師団関東軍編入した。
 同年7月初旬 ソ蒙軍はハルハ河を越え、第23師団及び旅団規模の戦車部隊と1個歩兵連隊を基幹とする安岡支隊等と交戦を開始する。(第2次ノモンハン事変)日本軍は防衛線を固定せず、機動防御による後退戦を展開、突出してきた戦車部隊を対戦車砲陣地と戦車部隊の連携により撃破、更に夜襲攻撃を頻繁に繰り返しソ蒙軍の侵攻を食い止めた。
 同7月中旬 練習空母摂津を中心とした練習艦隊が欧州到着。
 同7月下旬 第1連合陸戦隊の第2陸戦旅団がノモンハンに進出、海軍航空部隊による航空支援も開始されソ蒙軍の攻撃は頓挫する。
 同年8月中旬 上海で国民党政府軍による租界攻撃が開始される。日本を除く各国の租界防衛部隊は交戦を回避、租界内に中国軍が侵攻する。事前に情報を得ていた日本軍は、租界の防衛を断念、空母機動部隊の支援を受け多数の艦船を動員し、上海からの邦人避退を開始する。 
 同年8月23日 独ソ不可侵条約締結
 同8月末 殿軍として戦っていた第1陸戦旅団が、重装備を処分後夜陰に紛れ上海を撤退する。その後租界内の各国防衛部隊は中国政府により武装解除され、事実上上海租界は消滅する。
 同年9月1日 ドイツ軍ポーランド侵攻、第2次世界大戦が始まる。
 同日 練習艦キールを出航、アメリカに向かう。
 同9月初旬 ソ蒙軍による第2次攻勢が開始される。

−第3次ノモンハン事変の戦闘−
 第一次攻勢の失敗から大幅に兵力を増大したソ蒙軍は、大量の重砲による事前砲撃と航空部隊による爆撃で日本軍陣地を攻撃、歩兵6個連隊及び機関銃旅団、戦車旅団各一個で日本軍主力に対し正面から攻勢に出た。さらに日本軍軍主力を両翼から包囲すべく、戦車と自動車化狙撃部隊を主力とした装甲部隊を日本軍側面に進出させた。正面の戦闘では、ハルハ河を越えて押し寄せるソ連軍に対し、歩兵3個連隊(歩兵26、63、72の各連隊)を主力とした守備部隊は早々に第一防衛線を放棄、第二防衛線で防御戦を行う。日本軍の大幅な後退に砲兵部隊が追随できず、戦車を先頭に日本軍の陣地突破を図るソ連軍に対し、日本軍は後方に配した砲兵部隊による弾幕射撃を開始、ソ連軍の戦車部隊が歩兵部隊と連携を断たれたところで対戦車砲部隊により戦車部隊を攻撃、続いて後方に控えていた安岡支隊の戦車部隊と機動歩兵連隊が反撃に出た。ソ連軍の装甲部隊がこの戦闘で大打撃を受けると見るや、前線の3個歩兵連隊もいっせいに反撃、第一防衛線を回復した。この一回の戦闘でソ連軍中央部隊は戦車部隊及び移動用の車両多数を喪失、一時的にその突進力をなくしてしまう。一方左翼から日本軍の側面に回りこもうとした装甲部隊は、フイ高地を守る海軍陸戦隊第3陸戦連隊の前に進撃が停止、迂回を試みた部隊はフイ高地に進出していた重砲部隊の砲撃を受け大きな被害を出した。右翼を進む部隊は大きな抵抗を受けないまま進撃を続けたが、第6師団から分遣された歩兵第36旅団を主幹とする部隊による抵抗線により進撃を阻止された。中央でのソ連軍の圧力が減少したのを機に安岡支隊はソ連軍右翼の主力部隊の後方に進出、補給線を切断するとともに右翼部隊に後方から圧力をかける。戦線後方に進出した海軍の航空部隊は、長躯ソ連軍前線飛行場を襲撃し打撃を与えた後、ソ連軍の砲兵部隊や補給拠点に反復攻撃を加え大損害を与えた。この直後日ソ間で停戦が合意に達し、ノモンハンの戦闘は日本軍優位で終ることになる。
 

 同9月初旬 ソ蒙軍の攻勢に連動するように中国軍が満支国境各所で軍事攻勢に出る。同時に内蒙古に10万あまりの兵力を送り侵攻を開始する。
 同9月中旬 ノモンハンでの戦闘が終結
 同年9月17日 ソ連軍、ポーランド東部に侵攻開始
 同9月中旬 膠州湾に日本軍3個師団が上陸、山東半島を占領。同時期山海関方面で日本軍が攻勢を開始する。
 同年10月中旬 中国軍は北支での戦闘継続を断念、撤退を開始する。内蒙古に侵攻した中国軍10万、退路を立たれ降伏。
 同年11月3日 ソ連軍、フィンランド侵攻開始 (ソ・フィン戦争勃発)
 同年12月 日中間で停戦が発効、日本軍は河北省及び山東省一帯をを緩衝地域として占領を継続する。
 1940年1月 日中停戦発効に合わせて宇垣内閣退陣、米内内閣成立。
 同年1月 米国、日本軍の中国撤退を要求。日本は満州国防衛上の観点からこれを拒絶。
 同年2月 米国、日米通商航海条約の破棄を一方的に通告。