龍神沼の自由帳

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重雷装主義の系譜

 全ては加古の殉難から始まったことだった。室戸沖事件で加古に最大の災厄を与えたのが自らが装備していた61㎝魚雷の誘爆だったことが、帝國海軍の装備体系に大きな変革をもたらした。巡洋艦以上の艦からの雷装の撤廃、それは最上型阿蘇巡洋艦の誕生に大きな影響を与えた海軍艦艇兵装思想上の一大改革であり、巡洋艦以外の艦艇建造構想にもその流れは及ぶことになる。
 それは将来予定されていた条約型重巡の雷装廃止によって起こる攻撃力の減少にどう対処していくべきか、という議論の中から生み出された戦術構想だった。ロンドン条約の枠組みの中で、駆逐艦の建造には制約があり、苦肉の策として生み出された水雷艇は戦闘力的にその代替は務まらなかった。最上型の整備に伴い戦力的に余剰になる5500t級軽巡を、重雷装艦に改造することで水雷戦力を補完する計画も実行に移されたが、対米戦力比の劣勢を補うには全く充分でなかった。そんな議論のさなか、かねてから研究中の酸素魚雷の開発に目途が付いたことが報告された。従来の魚雷に較べより速く、より遠くに届き、より強力な破壊力を持つその性能は、議論の流れを決することになる。
 命中すれば確実に艦艇の戦闘力を奪う魚雷、より高速でより強力な破壊力を持つ魚雷を米戦艦群に確実に当てることができれば、主力艦における劣勢を覆すことができる。ではどうすればそれが実現できるか、関係者を集め繰り返される討議の中でその方向性は固まってきた。強力な雷装を持ち重防御で高速の雷撃専任艦を条約の枠外で大量に建造、これによって米戦艦群を攻撃する。戦艦も巡洋艦駆逐艦もこの雷撃専任艦を支援するために戦闘する、つまりこれらの艦を持って米戦艦群を守る米巡洋艦駆逐艦を撃破し、雷撃専任艦が米戦艦群に肉薄、攻撃できる状況を作り出す。これが航空主兵に転ずるまでの日本海軍の主戦術思想とされ,その構想の具現化が進められることになる。