龍神沼の自由帳

気が向いたら更新しますわ

海の牙城4巻『太平洋の乱雲(仮題)』を妄想する

序章 -真珠湾の雷鎚-
 洋上でハワイ諸島周辺の警戒に当たる駆逐艦のレーダーに大量の輝点が出現、真珠湾に向けて放たれた日本軍の攻撃部隊が探知される。真珠湾警備司令部に向けて緊急電が打たれるさなか、新たな輝点が高速で攻撃部隊を追い越していくのがレーダースコープに映る。
 急速に迎撃態勢に移行する真珠湾周辺の飛行場、次々と並べられる戦闘機の列線、その上空に閃光が走る。すさまじい風切り音と共に、地上に向かって高速で落ちてくる無数の灼光。滑走路に、機体に、格納庫に、高射陣地に、その光の弾丸が打ち当たった刹那そこは灼熱の炎に覆い尽くされていく。火炎地獄の中、燃料弾薬が誘爆し、そこに存在する全てのものが燃え上がり粉砕されていく。
 オアフ島北西400km、真珠湾から飛び立ち定期哨戒中のカタリナの機上レーダーに反応がでる。一群の艦船らしきものの存在を確認する為探知地点に向かったカタリナ搭乗員が見たものは、艦体の前後から交互に、巨大な閃光と共に大型の筒状の物体を打ち上げる2隻の大型艦だった。
第一章 -航空打撃戦艦-
 バリクパパンに大破着底した2隻の戦艦の処置について連合艦隊、軍令部、艦政本部の間には大きな相違があった。軍令部は、浮揚修理にかかるコストを他の艦艇建造に振り向ける考えを持ち、艦政本部と連合艦隊は浮揚修理には積極的だったが、連合艦隊航空母艦への改造を望み、艦政本部内では空母化以外に戦艦復帰案、航空戦艦案、防空戦艦案などいろいろな試案がだされていた。とりあえず浮揚内地回航の決定がなされたのはバンカ沖海戦に勝利した一月後、セレター軍港で応急修理を受け伊勢が呉に着いたのは翌年3月、遅れること2ヶ月で日向も内地に戻った。早速機関部及び船体外殻の修理と損壊部の撤去が開始されたが、この時期にいたってもその利用法については決着がついていなかった。昭和18年7月に至って、ようやく正式に両艦の空母化が決定した。すでに修理ドックから引き出されていた2隻は、早速上部構造物の撤去工事を開始することになった。
 しかしその一月後、友邦ドイツから帰還した連絡潜水艦により持ち帰られたドイツ軍の最新ロケット兵器が2隻の将来を大きく書き換えてしまう。A4ロケット、一般にV2号として知られる戦術中距離ロケット兵器のプラットホームとして、2隻の戦艦を使用する計画が採用されたのだ。A4の国産化には多くの技術的困難があり、さらに太平洋戦線で使用するためいくつかの仕様変更も行われたこともあり、真珠湾作戦時点では伊勢日向の定数分を若干上回るぐらいしか生産されていなかった。伊勢日向は正式呼称は戦艦のままだったが、関係者からは『航空打撃戦艦』と呼ばれていた。両艦は砲塔を全て撤去、前後部の艦橋もそれぞれ小型の塔型のものに変更された。1〜2番砲塔及び5〜6番砲塔があった部分には、それぞれ各2基の『征天』と呼ばれたA4改良型ロケットの発射台が設置された。艦内前後部には、ほぼ同様の配置で征天12発を納める格納庫、混合燃料タンク、液体酸素タンクが設置された。誘爆による艦の損傷を抑える為、このロケット運用部分は艦の防御区画とは別に設置され、万一の際の艦の生残性を高める設計になっていた。また3〜4番砲塔跡にはカタパルト2基を設置、水偵6機を搭載した。このほか両艦は征天発射時の艦の動揺を抑える為、小型空母で採用していたジャイロスタビライザーを改良大型化したものを装備した。対空兵装は、12,7cm連装高角砲を艦中央部に片舷3基計6基12門と、25㎜3連装機銃及び単装機銃合計72丁を装備した。
 2隻の改造は昼夜兼行で続けられ、8月中旬には完了した。完成後すぐ練成訓練に入り征天が定数生産されると直ちに搭載、第一機動艦隊と合流し単冠湾に向かった。作戦が開始されると、直衛の軽巡1隻松型駆逐艦5隻とともに機動艦隊よりさらに前進、夜間急進することで攻撃開始時真珠湾をその射程下に収めた。第一機動艦隊の空襲部隊がレーダー探知距離内に進入を開始し始める少し前から発射を開始。2隻あわせて48発の征天を90分かけて打ち上げた。征天の弾頭は三式弾を応用した焼夷榴弾と、多数の小型タ弾を弾頭に詰めたものの2種類が用意されていた。この弾頭は着弾点上空1㎞から500mで炸裂するよう設定されていた。