龍神沼の自由帳

気が向いたら更新しますわ

不覚にも思い出した

 クレヨンしんちゃんの13年後 2ろぐさんより
 ペットを亡くした記憶っていつまでも残るんだよね。
 俺が中学生の頃、家に雄の猟犬がやってきました。親父が狩猟が趣味だったんで、どっかから鳥猟犬のジャーマンポインターを手に入れたのが、こげ茶と白のまだら模様のそいつでした。そいつはうちに来てから一月ほど名前が付いてませんでした。俺がグレートでプリティな名前をつけようと呻吟している間に、家族はそいつを「ごん」と呼び始めました。「はじめ人間」ではありません。サッカーもやってません。箪笥にも入っていません。誰も名前をつけなかったのでななしの権兵衛→ごん、「それはあんまりだろう、犬の気持ちも少しは考えてやれよ」とは思いましたが、適当な名前を思いつかなかった俺もいつのまにか「ごん」とそいつを呼ぶようになっていました。ネーミングが雑なのはうちの伝統なんでしょうか、ごんを飼い出してからちょっと後に弟分としてやってきたビーグルはちいさいから「ちび」、まるでどっかの漫画みたいな安直なネーミング、人間様である俺の名前だって、親父の名前と兄貴の名前から一字づつとったお手軽なものでした。
 ごんが家に来たときはたぶん生後半年くらいだったのでしょう。帰宅部で暇をもてあましていた俺はしょっちゅうごんと遊んでいたんで、ごんは俺のことをご主人様ではなく兄弟程度に思っていたんでしょうが、良く俺になついていました。ごんの本業は狩猟犬なんだけど、短い猟期以外は普通のペットとしての待遇を受けていました。家は農家だったんで田植えの季節から稲刈りの頃まで、両親や手伝わされてた兄貴や俺が労働にいそしんでいる間、ごんは田圃や蜜柑畑を泥だらけになって走り回りばったやカエルなんかを追い掛け回していました。ごんは時々遊びすぎて山の中で迷ったりして家族を心配させたりもしましたが、俺たち家族と一緒に田舎でのびのびと暮らしていたと思います。俺も暇があったらごんを犬小屋から引っ張りだし、散歩と称してそこらじゅうを引きずり回して遊んでいました。
 高校3年のとき俺は一念発起して朝5時起き、受験生として根性をつけようと早朝ランニングを思い立ちました。一人で走るのもつまらんので、お前の散歩もかねてとごんにつき合わさせました。約一週間ほど続いたでしょうか俺のランニング、ある日気づくとごんが足を引きずっていました。足の裏の皮が、アスファルトで舗装された道路を毎日長距離走ったために擦り切れて血が滲んでいました。へたれの俺は、それ以来自主的に長い距離を走ったことはありません。
 俺が一浪して東京の大学に入ったのはごんがうちに来てから7年目だったでしょうか。その頃はまだ長距離電話は貧乏学生の敵でした。ほとんど実家と音信普通のまま夏休みが来て、初めての帰省。家に着くとごんがお出迎え、元気にまとわり付いてきます。その夏がごんとの最後の夏でした。
 母親が、(うちの母はペットを飼うと死別れるのが辛いから飼わない、と常々いっていました)何か泣きそうな声で帰ってきたばかりの俺に告げました。「ごんは○○(俺の名前です)がいない間に病気にかかって死にそうだったのよ、今は元気に見えるけどお医者が言うにはもう長くないって」えー、ぜんぜん元気じゃないのどこも悪く見えないよってそのときは思ったんだけど、よく見るとごんが何かちょっと小さくなったように感じました。長い距離走ることもなくなっていました。でも俺といるときはいつものごんでした。俺の居場所をチェックしながらあっちへ走っていき、戻ってきたと思ったら別のところで草むらに鼻を突っ込んでみたりする、いつもと変らぬ光景。長いようで短かった大学一年の夏休みが終わり俺は東京に戻りました。
 叔父さんのところでの居候生活にけりをつけ、板橋駅の近くに引っ越して待望の一人暮らしを楽しみ始めた秋の初め、アパートに帰ると大家さんからの伝言、家に連絡してくださいとのこと。100円玉をいっぱい用意して電話ボックスでダイヤルを回しました。母が出て、祖父母夫婦が東京に出て旅行がてら俺に会いに来るとのこと。その連絡のついでに、ごんが俺が東京に戻ってからひと月たたないうちに死んだことを知らされました。俺はごんの死んだ姿は見ていません。病気で苦しみ弱っているところも。母の声はなんか震えているように聞こえました。